2019年3月22日金曜日

(K0687)  最期の希望の伝え方 / 最期の選択(3) <臨死期>

 
 前回、「配偶者や子供に悩みをもたせないように、元気なうち、意思表示ができるうちに、自分の最期の希望を考えて伝えておくことが大切です」と書きました。
 
 「だから、エンディングノートを書きましょう。エンディングノートに、胃婁をしてほしいのか、してほしくないのか、しっかり書いておきましょう」とよく言われますが、私は強い違和感を覚えます。その違和感を整理してみました。
 
  死を直前に感じない、直ぐには死にそうにはないときの考えが、死を身近に感じた時も同じままであるとは思えない。つまり「死を直前にした私」の希望を、「死を直前にしていない私」は、決められないと思う。まさに命を終えようとしたときの気持ちは、死が間近でない元気な今では、なかなかわからないだろう(その時になったら変わるのではないか)。
 
  心残りがある時と、心残りが解消された時とでは、死に関する思いが違うだろう。子供の行く末が案じられる時、親は「死んでも死にきれない」だろう。しかし、もう大丈夫だ、後は本人に任せようと安堵していたら、親は穏やかに消えていくことができるようになっているかもしれない。つまり死に逝くときの希望は、その人の信条だけで決まるのではなく、どのような状況に置かれているかも関わる。死に逝く時の状況が分からない今、その時の希望がわかるわけがない
 
  死は、本人だけでなく、周りの愛する人たちも関わる。愛する人か逝き、残された人の心はどうだろうか。穏やかに送れただろうか、苦悩や後悔や無念を背負ってしまわないだろうか。どのように死ぬかは、本人だけの課題ではなく、周囲の人も巻き込まれる。私は、死んだら終わりだと思っている。どのように死のうと、死んだ時点で終わる。しかし、残された人は、ずっと抱え込む。だから、どのように死ぬかは、自分だけではなく家族にとって重要なことだと思う。「死ぬときぐらいは、自分勝手に、自分の好きなように死なせてくれ」とは、私は思わない。もしも死ぬ前に苦しい時間があっても、それで家族が納得できれば、それは意味ある苦しみだと思う。
 
  そもそも、「胃婁を続けてでも長生きしたいか、無駄に苦しまず自然に死んでいきたいか」は、いろいろな思いが交錯し、状況にも依存する。私の場合は周囲の人の思いも大切にしたい。「イエス」「ノー」で答えられるものではない。
 


 「家族は、本人のこれまでの生き方を思い起こして、本人が望むであろうと思われる道を選びます。私は、その決断が正しいと思います」(前回)は、その通りだと思う。
 
 そのために必要なのは、「イエス」「ノー」を書いたエンディングノートではない。矛盾に満ちた自分の思いを、矛盾したままでよい、見送ってくれる人に、たくさんたくさん語っておくことだろう。そうしておけば、「本人が望むであろうと思われる道」を想像しやすい。本当にそうできたかどうかは分からない。大切なのは、「本人が望むであろうと思われる道」を選べたと、残された人が思えるかどうかだ。そのために必要なのは、たくさん語り合っておくことだろう。
 
 もし、エンディングノートを書こうとしてそのような話し合いが生まれたとしたら、その時、エンディングノートの意義が現れると思う。

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