2017年12月31日日曜日

(K0245)  医療と宗教「終末期」講義 <臨死期>


先ずは、ごあいさつ。
今年、最後の投稿になります。

このブログは、始めてから245日目になりましした。
ご愛読いただき、ありがとうございます。
 

私の書く基準は
(1) 誰かの役に立てばうれしい
(2) 自分の為に役立つことを書き留める
です。

 人それぞれニーズが違うので「誰にも役立つ」は不可能です。ということは、「私には役立たない」があるでしょう。その時は読み飛ばしてください。でも、しばらくしたらまた舞い戻っていただくと嬉しいです。話題は、きっと変わっています。


 閲覧数を気にしていますが、そのためには書いていません。

 少しは、字数を減らしていきたいですが、それでも長いと思います。読みたければ最後まで読み、疲れたら途中でも止めてください。「誰にも役立つ」訳ではないので。


 以下、今年最後の本文です。


===== 引用はじめ
 終末期のがん患者を、医療、宗教それぞれの立場からどう支えるかを考える名物講義が、滋賀医科大(大津市)で10年以上続いている。医学科の4年生を対象とした「医の倫理合同講義」で、年に1度だけ開かれている。内部の医学生と外部の宗教者が互いの役割を知って「死生観」を深め、終末期の患者との向き合い方を議論する。治療の技術習得にとどまらず、患者と向き合う医療関係者の育成につながると注目されているという。(小野木康雄)
===== 引用おわり

 
 医療の目的が「死なせない」ことなら、死は医療にとって敗北になる。二つの問題が発生する(私の意見)。

(1) 「死なせない」を優先させ、QOL(quality of life)を低下させる可能性がある
(2)  人は必ず死ぬので、医療は最後には必ず敗北する

 講師を務める浄土真宗本願寺派の善福寺住職、長倉伯博さん(64)は「医療の目的は病気を治すことよりも、人生を深く味わう機会を患者に作ることに置くべきではないか。そう考えないと、人の死に直面したとき、医療には敗北しか残らない」と強調した。
 

 合同講義で「肺がんで余命1カ月と診断された50歳の男性は死の恐怖を抱えると同時に、仕事ができない喪失感を募らせていた」事例を検討した。学生からは、もし自分が担当する患者だったらどう対処するかという観点で意見を出されたが、大半が口にしたのは医療側からの希望だった。「悔いなく余命を過ごしてほしい」「死を受け入れてもらいたい」。

 すると、患者の言いたいことをひたすら聞く「傾聴」を実践している、ある僧侶がこう諭した。「この方は自分がどうなるかを知った上で苦しんでいる。そのとき、どうしたり、どう言ったりすれば共感してもらえるだろうか」

 合同講義後、医学科4年の平林歩さん(22)は「宗教者の見方は、いい意味で私たちと違っていた。患者に与えられるものも異なると思う」と語った。
 

医療と宗教「終末期」講義は、意味あるものだと思った。
 

出典
医療と宗教「終末期」講義   産経新聞(2017/12/4)
終末期がん患者どう支えるか-医学生と宗教者が「死」を考える 10年以上続く滋賀医科大の名物講義「医の倫理合同講義」
http://www.sankei.com/west/news/171204/wst1712040037-n1.html
 添付写真は、ここから。

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