「人の世話になりたくない」は、美徳ではない。一種の傲慢ですらある。
本論に入る前に、二つ断りをいれておく。
先ず、例えば「母の介護で大変だった。娘に同じ思いをさせたくない」という思いで「人の世話になりたくない」と思っている人もいるだろう。その気持ちを否定するものではない。
次に、「人の世話になりたくない」とできるだけの努力をするのは当たり前で、その前提の下、以下はその後に関わる話である。
命題:「人の世話になりたくない」は、美徳ではない。
1.
「人の世話になっている」ということに無自覚である
2.
「人の世話にならない」を相手にも要求してしまう
3.
「人の世話になる」を前払していない
4.
「人の世話になって潰れるプライド」は要らない
<各論>
1.
「人の世話になっている」ということに無自覚である
社会で生活している以上、人は一人では生きていけない。これまでたくさん「人の世話になってきた」。そのことに無自覚で、感謝していないのではないか。何をいまさら「人の世話になりたくない」など、格好をつけるのか
2.
「人の世話にならない」を相手にも要求してしまう
「私はあなたの世話にならない」なら、「あなたも私の世話にならない」ということになってしまう。「私はあなたの世話にならないが、私はあなたの世話をする」というのは、歪んだ生き方だと思う
3.
「人の世話になる」を前払していない
お互い様だが、時間のズレがあっても構わない。独立するまでは、一方的に両親に「世話になった」。両親が年をとってから一方的に両親の「世話をし」ても何らおかしくらい。自分の子を一方的に世話してきた。自分が年を取ったら子から一方的に世話になっても何らおかしくない。
お互い様だが、相手が替わっても良い。私は年を取ってから、自分より若い人に後見人になってもらうかもしれない。今私は、自分より年を取った人の後見人になっている。
順番も両方ある。恩を受けてから返しても良い。逆に恩を提供してから恩を受けても良い。
年をとって「人の世話になる」のはおかしくない。それを可能にするには、今何をすべきかが大切である。
4.
「人の世話になって潰れるプライド」は要らない
「人の世話になっている」自分が惨めに見えるのではないか。それは厭だからPPK(ピンピンコロリ)願望に逃げているのではないか。それは生に対する冒涜だと思う。それがプライドによるものなら、そんなプライドは潰してしまっていい。
それでも保てるプライドが、本当のプライドだろう。「人の世話になりたくないから死ぬ(PPK)」という生き方に私は賛成できない。
たくさん人の世話をして、たくさん人から世話をしてもらえばよい。
世話をしてもらっているのには無自覚でカウントできていないものが多い。世話をするのは自覚的でカウントする。だから「世話をした」=「世話してもらった」と同量だと感じている時は、実はバランスが取れていない。
例えば、「世話をした」=「世話してもらった」×2ぐらい、つまり「世話してもらった」の2倍「世話をした」と感じる程度がバランスの取れているのではないか。ただしこの「2」は感覚的なものであり根拠がなく、また人によっても違うだろう。「5」とか「10」とかが適切かもしれない。
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