2018年2月14日水曜日

(K0289)  西部邁の「自裁死」を美談にしてよいのか <臨死期>


 私自身は、リビングウイルを書くのに抵抗感がある。

 一つ目は、自分がどう死にたいかは、本当に死にそうにならないと分からないからである。体の痛み、心の痛み、自分に残されているそれらへの抵抗力、生への未練、特に残していく人たちへの未練がどのようなものか、想像できない。

 二つ目は、自分は死んだら終わりと思っているが、家族は、私が死んだ後も、生き続けねばならない。そのことを考えると、自分だけでは決められない。しかし家族に聞いても、やはり、わからないのではないか。

 

 以下は、“西部邁の「自裁死」を美談にしてよいのか”(宮下洋一)
http://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/%e8%a5%bf%e9%83%a8%e9%82%81%e3%81%ae%e3%80%8c%e8%87%aa%e8%a3%81%e6%ad%bb%e3%80%8d%e3%82%92%e7%be%8e%e8%ab%87%e3%81%ab%e3%81%97%e3%81%a6%e3%82%88%e3%81%84%e3%81%ae%e3%81%8b/ar-BBIW6C4?ocid=TOSHIBADHP17#page=2
を見ながら書いている。写真も、このサイトから転載している。
 

===== 引用はじめ
 評論家の西部邁氏が、多摩川に入水し、「自裁死」を遂げた。その訃報を美談として報じるメディアがある。だが日本に一時帰国していた欧州在住ジャーナリストの宮下洋一氏は、そうした報道に違和感を覚えたという。
===== 引用おわり
 

  家族に迷惑をかけたくないからと死を選択する日本人
===== 引用はじめ
 西部氏が生前、こんな言葉を口にしていたという報道をみて、少し立ち止まって、この問題を考えてみようと思った。
「家族に介護などで面倒をかけたくない」

昨年6月刊の『ファシスタたらんとした者』(中央公論新社)でも、以下のような記述がある。
<近親者を含め他者に貢献すること少なきにかかわらず、過大な迷惑をかけても生き延びようとすること、それこそが自分の生を腐らせるニヒリズムの根だ>

「家族に面倒をかけなくない」「迷惑をかけてまで生きたくない」。この2年間、私は世界6カ国で安楽死の取材を重ねてきたが、こうした趣旨の発言をするのは日本人だけだった。
===== 引用おわり
 

  欧米人は、「個人の最期の決定」と考える。
===== 引用はじめ
 死は、「個人の最期の決定」とする欧米では、医師はもちろんのこと家族ですら、安楽死という決断を尊重しようとする。
===== 引用おわり
 

● 日本人が安楽死を選ぶ動機は、欧米人と違う。
===== 引用はじめ
 日本で安楽死を認めることは難しいと思うようになった。そのキーワードがさきほど説明した「迷惑」である。日本では、安楽死を望む人間に何度も会った。そこでは自らの病気に対する肉体的痛みというよりも、他人に迷惑をかけたくないことを理由として挙げていたことが印象的である。
===== 引用おわり
 

● 欧米人の安楽死の背景に自己決定がある。自己決定しない日本人では、欧米流の「安楽死」が成立しない。
===== 引用はじめ
 私は「日本人に安楽死は向いていない」と考えている。なぜか。それは周りに迷惑をかけないために安楽死を選ぶのだとすれば、家族からの「そろそろ患者に逝ってほしい」という空気を、患者本人が察して、死を願い出るケースも十分考えられるからである。「空気を読む」という日本的習性が、死にかかわる決断を左右するのは危険だ。それは長年、欧米で議論され、培われてきた「死の自己決定権」とは、対極の概念に行き着くものだからだ。
===== 引用おわり
 

● 家族に迷惑をかけたくないと言っているが、彼の言う迷惑は、家族にとっての迷惑だったのだろうか。
===== 引用はじめ
 実際に、西部氏は多摩川に身を投じた。彼自身は思いを達成した、とも言える。「どう死ぬか」「どう死にたいか」を考えた末の選択だったのだろう。
 だが、一つ気になることがある。遺族に及ぼす衝撃はいかなるものか。報道によれば、西部氏が自宅にいないことに気付いた家族が、深夜、同氏の行方を捜していたという。水に濡れ、冷え切った遺体を目にした遺族の心中を察するに余りある。彼が思う「迷惑」が、本当に家族にとって迷惑なものだったのだろうか、とも思ってしまう。
===== 引用おわり
 

 他人の「自裁死」が、良かったとか悪かったとか言っているのではない。また、私は「自裁死」することはないだろう。しかし、周囲にそのような人がいたら、直ちに「あなたの意思を尊重します」とは言わずに、「よく考えてください」とは言うだろう。お節介だろうか。

 私も日本人だからだろうか、私は、自分の死は、自分だけの問題ではなく、家族の問題でもあると思っている。

 いつか家族と、しっかり話し合わねばならないだろう。今は、まだその時期ではないと思う。そう思いながらズルズルと先延ばしして間に合わなくなるかも知れないが、それはそれで仕方がない。多分、話し合いたいと思う時がやがて来るだろう。そのとき話し合いたい。

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