講演を聞いて、私が思ったことである。
大震災の後、一頃、「絆」という言葉がさかんに聞こえてきた。
当時それが、軽々しく聞こえ、何か抵抗感があった。「絆」という言葉自体は、良いと思うのだが。
何故「軽々しく聞こえ、何か抵抗感があった」のか、
少しわかったような気がした。
===== 配布資料 からの 引用はじめ
絆は、傷を含む。たとえ傷ついても抱いてくれる人がいるのか?傷の再配分=社会は健全に傷つくための仕組み
===== 引用おわり
「人と人とが出合うと、必ず傷つく」。その通りだと思う。
人と人とが共にいると、必ず煩わしいことも起こる。
自分が傷つくこともあるし、意図せず相手を傷つけることもある。
誰も傷つかないための良い方法がある。誰とも付き合わなければよい。誰とも付き合わなければ、煩わされることもない。
ご近所づきあいが少なくなってきている。
自治会活動なども、参加率が減る傾向にあるようだ。
傷つきたくないのだろう。煩わしいのは嫌なのだろう。
それでも、つながり合おうとするのが、「絆」ではないだろうか。
「傷の再配分」。あなたと関わり、私も傷つく。
そのことを通じて、相手の傷が少し楽になる。これを通じてのみ、楽になるような傷もある。
対人関係のボランティアをする限り、
少し傷つく、あるいは、少し煩わしいのは、受け入れるしかない。「健全に」傷つく。
「傷つき、煩わしさを背負って、被災者のなかに入る」ことをせず、
テレビカメラに向かって「絆、絆」と連呼する人がいた。「絆」と言うこだけで、何もしないことの免罪符にしようとしている。
私はそう感じたので、抵抗感があったのだろう。
確かめたわけではない。考えすぎだったかもしれない。
「社会とは、赤の他人の為、健全に傷つく仕組みである」
なるほど。
出典
市民福祉大学主催 市民福祉セミナー「助けてと言えるために ~子ども・家族MARUGOTOプロジェクトの報告~」
NPO法人抱樸 奥田知志 理事長 平成30年1月19日
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