亡くなった日野原重明さん(聖路加国際病院名誉委員長)の言葉である。
「死に方は生き方で決まる」その通りだと、思う。
最近、石橋文信さんのお話をうかがった。
http://kagayakiken.blogspot.jp/2017/07/k0076.html
「食べることができなくなったら」そのまま逝くのがもっとも安らかな死であり、人によって違うが、目安は5日ぐらいだそうだ。実際、ご自身のお母さまが延命治療を受けずに、この7月3日に安らかに亡くなったという。
もしも、私が食べられなくなり、
でもまだ意識があり、自分の思いを語れると仮定したら、何を考え、何を言うか、想像してみた。
想像上の私には、未練があった。
もう少し長く、家族と同じ時を過ごしたいと思い、延命を希望した。
やがて、体もどんどん衰え、気力もなくなっていった。
そして「もういいわ」と思い、延命の停止を希望した。
これは想像上の私である。
その時、実際の私がどうするかは、私にはわからない。
自分の意思を伝える前に死んでしまうかもしれない。
死なないでも、意識がなくなっているかもしれない。意識はあっても、伝えられなくなっているかもしれない。
あやふやである。だから、私はこれ以上考えたくない。
だから「エンディングノート」に、今は、何も書きたくない。それで不都合なことが起こったら、自業自得だから仕方ない。
神様は、常に私に生きよと命じる。
私は、素直に生きようとする。でも、だんだん苦しくなってきたら
神様は見かねて、「もういいよ」と言ってくださる。
神様の声は聞こえないが、シンクロナイズしてその時、
「もういいわ」と私は思うに違いない。
(注)私の考える「神様」。私は、クリスチャンではない
私は、死について、思い煩いたくない。
生きることだけを考えたい。
上に書いたのは「どう死ぬか」ではない。
最期まで「どう生きるか」を書いた。
最期まで、生きて、生きて、生き抜いた
日野原さんのご冥福を祈る。(クリスチャンにこの言葉を使ってよいのかという議論があるようだが、
気持ちを伝えたい)
(写真:聖路加国際大学提供)というものを転載させていただいた。
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