「自分の死に方は自分で決めましょう」。そのために「エンディングノート」を書きましょう、「リビングウイル」を書きましょう、と最近よく聞く。例えば、
しかし、私は、今のところ、書こうとは思わない。
(1) まさに死なんとするときの私の意思を、今の私は想像できない
(2) 私の死は私だけのものではない。私の死に伴う家族の悲しみを少しでも和らげたい。私が勝手に決めてよいものではない
(3) 私が意思表示できる状態なら、その時に意思決定する
(4) 私が意思表示をできなくなっての意思決定は、家族にしてもらってよいのではないか
(5) 死に対する考え方について折に触れて話し合っておけば、妥当な判断ができるだろう
「尊厳死」ではなく「安楽死」についてであるが、加藤尚武氏の文を素直に読んだ。
===== 引用はじめ
欧米の安楽死論をみていると、心は変わりやすい、医療技術は日進月歩であるという2つの変わりやすさを無視しているように見える。法律上の責任免除の形式を守ろうとすれば、文書で書くことになるが、文書は「変わらぬ状況下で、変わらぬ意思を表明する」という形を避けられない。
文書には書ききれないような状況の変化が実際に起こる。欧米では法律上の責任免除の形式に、実質的な状況判断が引きずられてしまっているのではないだろうか。
===== 引用おわり
そう、文章に書いてしまうことによって「実質的な状況判断」がゆがめられてしまうことを、私は恐れている。
===== 引用はじめ
結局、私の本当の気持ちをくみ取ってくれる人に私の最後のみとりをお任せする以外に方法はない。===== 引用おわり
私が思っていたことを、専門家があっさりと認めてくれた。
引用:
加藤尚武、「変わりやすさ無視した安楽死論」、正論、産経新聞(2017/10/30)【正論】死にたいと思う心と日進月歩の技術…「変わりやすさ」無視した欧米の安楽死論 京都大学名誉教授・加藤尚武
http://www.sankei.com/column/news/171030/clm1710300005-n1.html
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