【 鍋島直樹 ・ 仏の大悲】よく読むと、「仏の大悲を感知する」、「大悲にいだかれて」とあります。私が大悲を実践するのではない。大悲は仏のものであり、私の外にある。私の外にある大悲を私が感知し、私の外にある大悲に私がいだかれる
公開講座「“あなたの そばにいます”~生きることの辛さ悲しさに寄り添う~」(鍋島直樹講師)を聴講しました(2022/02/26)。
【仏の大悲】
===== 引用はじめ
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死と死にゆくことは、悲しくつらい。しかし死を通して人生の意味が問い直され、愛の大切さに気づき、生死を超えた仏の大悲を感知する時になる。
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大悲にいだかれて、人を孤独の中に置き去りにせず、最後まで人生を全うできるように支援し、死を超えてつづく愛を育んでいきたい。
===== 引用おわり
(再掲)
よく読むと、「仏の大悲を感知する」、「大悲にいだかれて」とあります。私が大悲を実践するのではない。大悲は仏のものであり、私の外にある。私の外にある大悲を私が感知し、私の外にある大悲に私がいだかれるのである。
日本大百科全書(ニッポニカ)「慈悲」の解説に「大慈、大悲、大慈悲というときは、仏や菩薩(ぼさつ)の慈悲を表す。」とありました。
https://kotobank.jp/word/%E6%85%88%E6%82%B2-74800
また、「諸経論には、慈悲に(1)生きとし生ける者に対して起こすもの(衆生縁(しゅじょうえん))、(2)すべての存在は実体がないと悟り執着を離れて起こすもの(法縁(ほうえん))、(3)なんらの対象なくして起こすもの(無縁(むえん))の3種があり(三縁の慈悲)、このうち無縁の慈悲が無条件の絶対平等の慈悲であり、空(くう)の悟りに裏づけられた最上のもので、ただ仏にのみあるという。」とも書いてありました。
(3)無縁の慈悲は仏にのみにあることを逆に読むと。(1) 衆生縁や(2) 法縁は、仏でなくてもあることになります。
===== 引用はじめ
〈(他者の苦痛をわがこととして)苦しむこと・嘆き悲しむこと〉から,〈同情・あわれみ〉を意味するようになった。仏陀の〈悲〉はとくに,〈マハー・カルナーmahā‐karuṇā(大悲・大慈悲)〉と呼ばれ,〈自分が,だれかに,どれだけのことをしてやる〉という,3条件を意識しない,〈無縁の大悲(無条件の大きな愛)〉だとされている。
===== 引用おわり
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E6%82%B2-558165
私は仏陀でないし、仏陀になろうともしていません。〈自分が,だれかに,どれだけのことをしてやる〉を意識してもよいのではないでしょうか。
「大悲」は無理でも、「悲」なら到達できる。私のレベルでできるのは「生きとし生ける者に対して起こす」ので、これはこれでよいのではないでしょうか。
ところで、では「悲」とは、何でしょうか。
【公開講座】“あなたの そばにいます”~生きることの辛さ悲しさに寄り添う~
講師: 鍋島 直樹
氏(龍谷大学文学部教授 神戸市真覚寺住職)
日時: 2022 年 2 月 26 日(土)、 3 月 5 日(土)
会場: 神戸市立総合福祉センター
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私は、2月26日に聴講しました。