2018年3月28日水曜日

(K0332) 「徘徊」使いません(2)その意味するところ <脳の健康><インクルーシブ社会>

 

(K0331) 「徘徊」使いません(1) <脳の健康>
http://kagayakiken.blogspot.jp/2018/03/k03311.html

からの続き。
 
 

認知症サイドからの声。
 
===== 引用はじめ
 …「徘徊と呼ばれるのは受け入れられない」と話す。散歩中に自分がどこにいるのか分からなくなった経験があるが、「私は散歩という目的があって出かけた。道がわからず怖かったが、家に帰らなければと意識していた。徘徊ではないと思う」。

「私たちは、自分なりの理由や目的があって外に出かける」「外出を過剰に危険視して監視や制止をしないで」

「『徘徊』という言葉で行動を表現する限り、認知症の人は困った人たちという深層心理から抜け出せず、本人の視点や尊厳を大切にする社会にたどり着けない。安心して外出が楽しめることを『当たり前』と考え、必要なことを本人と一緒に考えてほしい
===== 引用おわり
https://www.asahi.com/articles/ASL3N6H64L3NULZU015.html
添付写真は、このサイトから転載
 


 認知症当事者からすれば「私たちは自分なりの理由や目的があって外に出かけている」「行方不明になるとしても、わけもなく出歩いているのではない」のであっても、「徘徊している」という言葉を使うと、「目的もなく、うろうろと歩きまわること」(大辞林)、「どこともなく歩きまわること」(広辞苑)ということになる。ギャップがある。このギャップがなくなれば、楽になる
 
 そのためには、「私から見てその人がどう見えるか」ではなく、「その人がどのような世界を見ているか」に寄り添えるようになればよい。。(添付図「当事者と周囲の人とのギャップ」参照)

 


 この関係は、認知症当事者だけではなく、あらゆる人に対しても、当てはまる。相手のことを分かっているつもりでも、本当は私たちの視点から見ているにすぎず、本当のその人の想いをくんでいないのかも知れない。謙虚な気持ちで、素直に相手により添おうとする。一人一人がそのように生きていけば、生きやすい世の中に変わって行く。
 
 認知症当事者に優しい社会は、すべての人に優しい社会だ。それが「インクルーシブ社会」の一つの姿なのではないだろうか。






 

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