定年後、働いたりボランティアに励んだりするのもよい。それは自分の存在意義を高めてくれる。前回書いたが、鈴木健二さんのいう「老前」をそのように過ごすのもよい。
ただ、「自分の存在意義」を絶対視するのは好ましくないと思う。弊害が二つある。
一つ目は、趣味を楽しんでいる人、あるいは趣味を楽しんでいる自分を否定的に見がちだということである。
二つ目は、やがて働いたりボランティアができなくなったりしたとき、自分の存在意義がなくなってしまうことである。
彼らの「老前」は良いかもしれないが、「老後」は悲惨になる。
これを避けるためには、どうすればよいか。二つあると思う。
一つ目は、趣味やスポーツを楽しむこと。写真を撮るのが趣味という人にとって、写真を撮ることが何かに役だから取るのではなく、写真を撮ること自体が楽しいのである。二つ目は、「doではなくbe」。「稼いできてくれるから大切な人」と妻に思われているなら、稼がなくなったら大切な人でなくなる。「寝たきりでも、生きていてくれていることが嬉しい」と子に思ってもらえるか。他者とのかかわりの中で、自分の存在が位置付けられる。
働けなくなっても、ボランティアをできなくなっても、家事ができなくなっても、自分で自分を慈しむ、居ること自体を家族がよろこんでくれる。人生の最期をそのように過ごせれば、それを私は「有終」と呼びたい。「有終の美」の「有終」である。
そうなるべくしてなるのではなく、積み上げでそうなると思う。
鈴木健二さんは、自身のNHK退職の時を、次のように描いている。
===== 引用はじめ
送別会はなし、見送ってくれる人もゼロ。同僚と酒を酌み交わしたこともなかったし、私には、一人の友達もいなかった。人の役に立つ仕事なんて何一つやっていなかったことにも気付きました。===== 引用おわり
これは、「有終」の備えができていない状態。
<出典> (前回と同じ)
鈴木健二、「老後」は75歳からでいい【話の肖像画】 産経新聞(2019/02/18)
NHK元アナウンサー・鈴木健二(90)(1)「老後」は75歳からでいい
https://www.sankei.com/life/news/190218/lif1902180012-n1.html
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