2018年4月28日土曜日

(K0361)  乳児の生きる意思、終末期の人の生きる意思 <臨死期>

 
 重い障害を負って生まれてきた乳児の「生きる意思」は、未だ言語を持たないが故に表明できない。しかし、その姿を見ると、生きようとしていることは十分伝わってくる。それを「意思」とよんでよいのかどうかは分からないが、広くとると「生きる意思」があると考えて良いのではないか。
 
 一方、体力・気力が低下し、意思表明が難しくなった終末期の人の「生きる意思」はどう考えればよいのか。私は、体力・気力が衰えてきた状態では、むしろ生きることが苦痛になるのではないかと思っている。私なら癌を宣告されても、未練がましく、それでも生き続けたいと思うだろうが、どんどん体力・気力が減退し、ある限界が来た時、「もう、終わりにしてもいいわ」思うに違いないと想像している。「生きる意思」は、弱まり、やがて消滅することがあるだろう。
 
 だから、「乳児の生きる意思」と「終末期の人の生きる意思」は、同次元では考えられないのではないかと思った。
 

 これに対して、二つの反論があるようだ。
 

 「90歳になっても、まだ生きたいと言っている人がいる」。私は、何歳かは関係ないと思う。その人は90歳でも生きる意思を持続させている。つまり、先ほど述べた限界点に達していない状態だと思う。だから、これは反論になっていないと思う。また、どれだけ弱ったら限界に達するかは人により違い、早く限界に達する人もいるだろうし、遅く限界に達する人もいるし、限界に達する前に死を迎える人もいるだろう。
 
 「それは老人神話にまどわされている。種々の研究でそれは間違いだと結論付けられている」という反論もあるようだ。「間違いだと結論付けた研究」が何なのか私は知らないので、それに再反論しようがない。ただ、意思表明できない人の意思を確認する方法はない筈で、そもそも結論付けられる問題ではないと思う。また、「もう終わりにしてもいいわ」と思うことはないと断言してしまうと、そもそも「尊厳死」は成り立たなくなるのではないか。


 どうも、納得がいかなかない。

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