2017年5月14日日曜日

(K0017) グリーフへの慰め / 新しい人生が始まった(3) <自立喪失からの脱却>


辛い時、苦しい時に慰めてもらうと救われる。
だから、辛そうな人、苦しそうな人を見かけると、慰めたくなる。

これは、人の善性である。
しかし、グリーフのレベルになると、問題が生じることがある。

===== 引用はじめ

グリーフって何?

グリーフとは、直訳すれば「深い悲しみ」や「悲嘆」を意味する言葉で、大切な人を失ったときに起こる身体上・精神上の変化を指します。死別はもちろんのこと、離婚などによって関係がきれるとき、引越しで慣れ親しんだ場所から離れるとき、職を失くしたとき、ペットが死んだときなど、さまざまな状況で私たちはグリーフを経験します。グリーフは喪失に対する自然な反応で、誰にでもいつかは起こることです。

===== 引用おわり

 

深い悲しみにある人を目の前にすると、
慰めたいと思うが、どう言ってよいのか分からず、困ってしまう。
深刻であると、なおさら声をかけられなくなってしまう。

これは、正常な反応だろう。

無理に慰めの言葉をかけると、あるいは、
悲しみの深さに気づかず慰めの言葉をかけると、
時にその人を傷つけ、その悲しみをより深くしてしまう。

 
===== 本からの引用 はじめ (P.32 , P.35 – P.36)

主人と二人して呆然とする中で、先生は最後に「アメリカにはダウン症のコメディアンもいて活躍しているから」と付け足しました。

それは何の慰めにもなりませんでした。


病室にはなぜか牧師さんがやって来ました。

これも神の思し召し、困ったことがあれば相談になる、
というようなことを言われましたが、
返事をする気にもなれず、ぼんやりと床の上ばかり眺めていました。


自宅に戻ると、今度は保健師さんがやってきました。
「岸田さん、あのね。こういう障害のある子どもは、
ちゃんと育てられるお母さんを選んで生まれてくるんだよ」
「はあ …」
「神様は乗り越えられる不幸しか与えないからね」
保健婦さんの慰めの言葉に、私は思わず耳をふさぎたくなりました。

私はまだ良太の障害を受け入れることができていませんでした。
これからどうなるのか、どうすればいいのかなんて、ちっともわかりません。
そんな私の心を置き去りにして、周囲の人たちは私を慰めます。

頑張りなさい、と言われているような気がして。
かわいそうな人だ、と現実をつきつけられるような気がして。
どんな言葉をもらっても責められていると錯覚する私は後ろ向きになり、
塞ぎ込みました。

===== 引用 おわり

 

ある言葉を発し、相手がそれで慰められたとき、
発せられた言葉は、「慰め言葉」と言える。

その意味においては、グリーフのレベルの相手に対しては、
そもそも、「慰め言葉」は存在しないかもしれない。

 
辛そうな人を目の前にして黙っているのは、
とても苦しいから、何か声をかけようとする。

更に、医者や牧師や保健師として接するときは、
何か声をかけないと、義務を果たしていないような気になる。

しかし、そのようにして発せられた言葉は、
その人自身の為のものであって、
深い悲しみにある人は、置き去りにされている。

 

先ず「慰めるために私は何を言うべきか」という発想を捨て去ること。

グリーフにある人は、
言葉を発することができないし、受け取ることもできない。

 
そんなときには私も又
言葉を失っても許されるのではないか。

 

そして、グリーフに出会ったとき大切なのは、
何を言うかではなく、
どのようにその人と向き合うかではないか。

 

前回、夫から「育てなくていい」と言われた時の、妻(著者)の心境:

===== 本からの引用 はじめ (P.40 – P.41)

悲しくてつらい時に、主人は「頑張れ」とも「責任を持て」とも言わず、
私をただ信じて、寄り添ってくれました。

私の絶対的な味方になってくれる主人がいるなら
乗り越えていけると思ったら気持ちが楽になって、
本能的に突き動かされた(*)のかもしれません。

良太を育てる上で、一番の支えになってくれたのは主人でした。

===== 引用 おわり
(*) 「私が良太を育てる」と無意識に決意が飛び出した

 

(前出)

引用:岸田ひろ実、「ママ、死にたいなら 死んでいいよ」~娘のひと言から私の新しい人生が始まった~、致知出版(2017)

案内:2017/6/8 <岸田ひろ実さんを囲む会>1900開演、隆祥館書店(大阪中央区)

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