「私は不幸だ」「私はかわいそうな人だ」と自ら平気で言いふらす人がいる。
一方、「私は不幸だ」「私はかわいそうな人だ」と絶対に認めない人もいる。
尊厳を守っているのだと思う。
その人にとって、「不幸な私」「かわいそうに私」は、
尊厳を失った状態なのだ。
ヘレン・ケラーの「障害は不便ですが、不幸ではありません」。
現実を直視しながらも尊厳を維持している言葉だと思う。
「不幸な」「かわいそうな」という形容詞付きの私として生きるとき、
尊厳を失っており、困難に自ら立ち向かう力が奪われている。
形容詞が何もつかない素の「私」であるとき、尊厳を維持している。
人は本来、困難があろうがなかろうが、生き続ける力をもっている。
「尊厳により、困難を乗り越えられる」わけではない。
「尊厳を保っていると、本来もっている力により前に進める」。そして、
「前に進んだ結果、困難は乗り越えられている」
===== 本からの引用はじめ (P.54 – P.55)
当時、小学校の先生の一人が、奈美のクラスでこんな話をしたそうです。
「奈美さんは、いつも障害のある良太くんと一緒で苦労しています。
学校にいる時は、奈美さんを助けるつもりで
みんなが良太くんの面倒を見てあげましょう」
先生に悪気があったわけではないと思います。
むしろ奈美を助けるつもりで話してくれたのでしょう。
しかし、後にも先にも、この時ほど奈美が良太のことで
嗚咽するほど猛烈に怒ったことはありません。
「私は良太のお姉ちゃんになって、苦労したことなんてない。
かわいそうなんて思われたくない」
奈美の悔しさは、もっともでした。
===== 引用おわり
(奈美が姉。良太は弟でタウン症。二人の母が著者)
この怒りは、尊厳を傷つけられての怒りだと思う。
もしも「かわいそうな人を助けてあげなさい」というのが「道徳教育」なら、
そのような「道徳教育」は要らない。
人から尊厳を奪い、生きる力を奪うからである。
もう一つ書き加える。
「私は良太のお姉ちゃんになって、
苦労したことなんてない」と咄嗟に言えるのは、
両親が苦労している姿を見せなかった
という背景もあるのだろう、と思った。
見せなかったというより、苦労を意識しないほど、
良太を愛していたからではないだろうか。
(前出)
引用:岸田ひろ実、「ママ、死にたいなら 死んでいいよ」~娘のひと言から私の新しい人生が始まった~、致知出版(2017)
案内:2017/6/8
<岸田ひろ実さんを囲む会>19:00開演、隆祥館書店(大阪中央区)
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