2021年2月18日木曜日

(K1389) 「逝けない人々」 / 自立期と仕上期との間にて(13) <自立期~仕上期>

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日本では、長寿、長命が祝福された時代は過ぎた。老人は、露骨な言い方をすれば、今は社会のお荷物である。ヒューマニズムの本家本元の国々では、老いて逝く人びとを素直に見送ることが常識のように見うけられる

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 全体(男性+女性)の年齢階級別の認知症有病率は、8589歳で41.4%9094歳で61.0%95~歳で79.5%である(添付図)。

https://www.kantei.go.jp/jp/singi/ninchisho_kaigi/yusikisha_dai2/siryou1.pdf

因みに、男性高齢者の有病率が低いのが気にかかるが、認知症になった男性は、比較的早く死んでしまうからではないか。

 

 長寿、長命が世間から祝福された時代は過ぎた。老人というのは、露骨な言い方をすれば、今は社会のお荷物である。

 長生きは決してめでたいことではない。じつはおそろしい世界なのだ。しかも、生きている限り、社会に大きな負担をかけながら日々を送るのである。

 人を一日でも長く生かす。命をとことん大切にする。それが医学の義務であり、原理であった。現在もそうだ。しかし、それが経済と結びついているところから悲劇が生じる。いや、喜劇かもしれない。

…巨大な老人層は、当然、年金で生活を支えることになるだろう。年金では足りないので、貯金を取りくずしながら老化と認知症の世界へ移行していく。晩年に待っているのは介護によって生かされる生活である。胃ろう、透析、睡眠療法、人工呼吸、その他の延命治療の進歩発達とともに、「逝けない人びと」がこの列島にあふれ返ることに

 北欧をはじめ、先進諸国では延命に対する義務感はあまりないようだ。老衰者を人工的に生かすことに対する情熱は、どの国にも感じられない。ヒューマニズムの本家本元の国々では、老いて逝く人びとを素直に見送ることが常識のように見うけられる。

 人工的、経済的に「生かされる」立場の私たちの未来は、当人たちにとっても決して明かるいものではない。

 

<出典>

五木寛之、「新老人の思想」、P.68 – 70



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