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「自然の一部として、あるいは親から子へと命をつないでいくプロセスの中の一部として、自分を認識する時」「自然と対峙し、個人として、自分の誕生から死までの自分を認識する時」この二つで死の恐怖が違うだろう
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動物に(概念としての)死の恐怖がなく、人にはあるとするなら、人類は、どこかの時点で転換期があったはずです。
===== 引用はじめ
モモは死が怖くない。これは彼女が近代人ではないことを意味します。近代人は死を恐れますが、前近代の人にとって死は怖いことではなく、あの世に帰っていくことであり、また戻ってくることを意味します。花もこれと同じで、枯れてもまた新たなつぼみが花となって咲き誇ります。つまり、モモが生きているのは再生する時間(源とつながった時間)なのです。だからこそ時間の源では、時間が花として描かれていると考えられます。
===== 引用おわり
河合俊雄、「Momo
モモ ミヒャエル・エンデ」、100分de名著
どうなのでしょうか。ギリシャ神話や聖書や古事記にも死の恐怖が描かれていると思います。
ここで著者が「近代」「前近代」に注目したのは、自然に対峙する個人の意識が芽生えたことに関係するということではないでしょうか。
① 自然の一部として、あるいは親から子へと命をつないでいくプロセスの中の一部として、自分を認識する時
② 自然と対峙し、個人として、自分の誕生から死までの自分を認識する時
この二つの間では、死の恐怖の感じ方が随分違うだろうと思います。
添付は、
井村俊義、「忌避される死と近代的思考 一生と死を相対化するためのいくつかの視点」
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