2020年8月27日木曜日

(K1214) 緩和ケアと安楽死との関係 / 苦悩する人々に我々ができること(3) <ホスピス>



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その行為自体は、その人の本来的な命の長さを意図的に短縮する行為=「意図的に死を早める行為」なのである。安楽死は安楽死なのである。積極的や消極的に分類して論議する意義はあるのだろうか ~ どうだろうか
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 山崎氏は、「安楽死は安楽死なのである。積極的や消極的に分類して論議する意義はあるのだろうか」と疑問を呈しています。

===== 引用はじめ
 今回の嘱託殺人事件を、新聞やテレビなどのメディアによっては、安楽死(苦痛からの解放という大義名分のもとに意図的に死を早める行為)と関連づけ、さらにその安楽死を「積極的安楽死」や「消極的安楽死」などと分けて解説しているところもあった。
 だが、積極的であろうが、消極的であろうが、すなわち、その人に即座に死をもたらすのか、緩やかに死をもたらすのかの違いはあっても、その行為自体は、その人の本来的な命の長さを意図的に短縮する行為=「意図的に死を早める行為」なのであるから、それらが殺人事件として捜査されることは妥当なことだと思う。安楽死は安楽死なのである。積極的や消極的に分類して論議する意義はあるのだろうか。
===== 引用おわり

 これは、緩和ケアに携わる人として、当然なことであり、「死を意図的に(無理やり)延ばすこともしないが、意図的に早めることもしない」というのは、当然の前提だと思います。

 ただ、「緩和ケアに携わる人」から離れた時、どうなのでしょうか。私は、「積極的や消極的に分類して論議する意義」はあると考えます。私の個人的な意見としては、「消極的安楽死」のみならず、「積極的安楽死」も選択肢の一つとして入れるべきだと思います。ただ、安易に選んではいけない。「安易に選ばない」とは何かは、徹底的に検討する必要があるでしょう。

 ヨーロッパでは、「積極的安楽死」を法律で認めている国もあります。当然、「○○という条件が揃えば」という但し書きがついています。その但し書きがどうあるべきか。それだけではなく、法律の条文だけでよいのか。法律の条文は、法的に有罪か無罪かを明らかにしようとするものであって、個人の心や家族の心を斟酌するものではありません。

 いくら議論しても結論は出ない問題だけれど、だからといって、議論しなくていいというものではないし、現実論としては、暫定的な結論出し、修正し続けなければならないでしょう。ヨーロッパの安楽死の裏には、自殺を認めないというキリスト教の文化があり、日本とは違うので、ヨーロッパから学ぶべきことがあると同時に、安易に真似をしてよいというものでもないでしょう。

 緩和ケアを受ける人が、緩和ケアをする人の考え方に拘束されることも、よくないことのような気がします。

<先行投稿>
(K1211)  ホスピスや緩和ケアとは、全く無縁な殺人事件 / 苦悩する人々に我々ができること(1) <ホスピス>

(K1212) 生きる意味や希望を見いだすことが困難 / 苦悩する人々に我々ができること(2) <ホスピス

<出典>
苦悩する人々に我々ができること ケアタウン小平クリニック院長・山崎章郎
【正論】産経新聞(2020/08/24)
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