【 読書 ・ 老人力 】 この時代に、一元的な努力の届く範囲は知れている。反努力を現実問題として考えないといけないんじゃないか。反努力というのは、ある種の自然主義でもあるし、他力思想のようでもある。
===== 引用はじめ
昔は学校に行かずに働く子を可哀相だといったが、いまはむしろ働けずに学校に行っている子が可哀相だ。昔は可哀相だった売春が、いまではそれ自体がファッションになっているような時代に、一元的な努力の届く範囲は知れている。反努力を現実問題として考えないといけないんじゃないか。
反努力というのは、ある種の自然主義でもあるし、他力思想のようでもある。
===== 引用おわり
時代が変わったと言う。
①
昔は学校に行かずに働く子を可哀相だといったが、いまはむしろ働けずに学校に行っている子が可哀相だ。
②
昔は可哀相だった売春が、いまではそれ自体がファッションになっている
昔は、努力して学校に行けるようになった。今は、「学校に行きたい」とは全然思っていないのに、エレベータ式に学校に送り込まれている。それが不全感を与えている
昔は、嫌なのに強制力が働いて、売春させられていた。今は、自らの意思で好んで売春まがいのことをするようになった。
この状況で、努力の意味が全く変わった。
そして、努力ではできないこともある。眠る、忘れるは、努力では得られないことは、既に述べた。ならば、反努力というものを現実的に再評価すべきではないか。
「努力をしなさい」と言うということは、放っておくと「努力をしない」からだろう。努力は、人間本来の性ではなく、倫理観のようなものに押し付けられた結果によるものだ。だから、反努力はある種の自然主義でもある。そして、自分の努力で何かを変えようとしないのであれば、何かを変えるのは他力であり、他力思想につながる。
私の言葉で、解釈したのだが、どうだろうか。
前回は、
(K1635) 教育の改善の努力では、成果は出ない / 「 老人力 」(26)
http://kagayakiken.blogspot.com/2021/10/K1635.html
<出典>
赤瀬川原平、「老人力」、筑摩書房、P.144
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