2021年10月8日金曜日

(K1619) 反努力が、老人力の実体ではないのか / 「 老人力 」(24)

 【 読書 ・ 老人力 】でも定義しよう。テキトーとは反努力のことだ。努力があって、反努力がある。努力の反対、じゃあ怠けることか、というとちょっと違う。あえていうと、怠ける力、というより、努力しない力ということになるのか。


 『ここで重要なのは「テキトー」である。テキトーであることがぼくらを眠らしてくれて、物忘れを実現してくれる。そのテキトーとは何なのか。どう定義すればいいのか。』が前回引用した最後の部分でした。

 今回は、いよいよ「テキトー」を定義し、それが、「老人力の実体」ではないのか、と言う。

 

===== 引用はじめ

 ここで重要なのは「テキトー」である。テキトーであることがぼくらを眠らしてくれて、物忘れを実現してくれる。そのテキトーとは何なのか。どう定義すればいいのか。

 これが難しい。定義するとは、テキトーを排除することである。だからテキトーを定義

すると、テキトーではなくなる。困りましたね。

 でも定義しよう。テキトーとは反努力のことだ。

 物質があって、反物質があるという。それと同じように、努力があって、反努力がある。努力の反対、じゃあ怠けることか、というとちょっと違う。あえていうと、怠ける力、というより、努力しない力ということになるのか。

眠る、忘れるということを可能にするのは、反努力の力である。ぼくらは反努力によって眠ることができるし、反努力によって忘れることができる。そういう努力しない力というのが、この世のどこかに、ぼくらのどこかにあるはずなのだ。

 その反努力の力というのが、老人力の実体ではないのか。

===== 引用おわり

 

 前回は、

(K1614) 「眠る」「忘れる」は努力ではできない / 「 老人力 」(23)

http://kagayakiken.blogspot.com/2021/09/K1614.html

 

<出典>

赤瀬川原平、「老人力」、筑摩書房、P.142 P.143



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