2019年6月15日土曜日

(K0776) 「看取りの家」断念(2) どう思ったか <地域の再構築>

 
前回からの続き。
 
 余命が短い患者らに最期の場所を提供する施設「看取(みと)りの家」の開設計画が頓挫しました。取材した記者は、次のように結びました。
 高齢化の進行で「多死社会」が迫る中、平穏な最期をどう描き、それを周囲はどう支援するべきか。計画の頓挫は大きな課題を浮き彫りにした。
 これでは、先に進めません。その背景に何があるか。「死」「地域」「権利」の意識に関わる問題が複雑に絡み合っています。
 


1.  
1.1.  3種類の死
1.2.  死への恐れ
1.3.  死と向き合う
 
2.   地域
2.1.  どのような地域にしたいか
2.2.  全世代が暮らしやすい地域
2.3.  地域のブランド力
2.4.  よそ者の心得
2.5.  開かれた地域へ
2.6.  地域と死とを結びつける
 
3.   権利
3.1.  他者の土地利用を制限できるのか
3.2.  NIMBY
3.3.  身勝手な権利主張
 
4.   「勝った負けたの問題で終わらせたらいけない」
 


【展開】
 
1.  
 
1.1.  3種類の死
 3種類の死があります。一人称の死(私の死)、二人称の死(大切な人の死)、三人称の死(よく知らない人の死)。「日常的に死を目にしたくない」というのは三人称の死であり、他人事だから冷たく言い放てます。一人称、二人称の死を想うとき、冷たくはあしらえません。
 三つの人称の死が統合されたとき、三人称の死を思いやることができます。「死からは逃れられない。住民側も自分たちの最期について考えるようにしないと」は、三人称の死(看取りの家)を一人称・二人称の死(私たちの最期)と重ね合わせて考えようということでしょう。
 
1.2.  死への恐れ
 死への恐れが強うとき、死は忌むべきものになります。「日常的に死を目にしたくない」「亡くなっていく人のお世話は大事な仕事。でも暮らしの中に入ってこられると嫌なもの」「見える範囲でなければあってもいいというのが正直なところ」。すべて感情的な反応です。死を見えないようにしたい、それは死への恐怖が強いから現れる反応だと思います。
 
1.3.  死と向き合う
 「看取りの家」というのは、これからなくてはならないものです。年老いた親を、何十年か後に年老いた自分を、「姥捨て山」に追いやろうというのが「看取りの家 断固反対」です。非合理的な判断で、私は残念に思います。この壁を乗り越えるためには、どうしても一人一人が死と向き合わねばなりません。それができないと、今後も「看取りの家 断固反対」が続出すると思います。
 


2.   地域

2.1.  どのような地域にしたいか
 私自身は「看取りの家」が自分の地域にできることを歓迎します。家族で面倒を見切れそうにないなら、最期の時間を自宅で過ごせなくなったら自宅に拘りません。そのとき、山奥に行くのではなく、家族がすぐにでも顔を出せる自宅近くで死を迎えられると嬉しいです。
 
2.2.  全世代が暮らしやすい地域
 赤ん坊から老人まで全ての世代が暮らしやすい地域は、よい地域だと思います。そのような地域なら、年をとってもずっと住み続けることができます。「看取りの家」に入るような人も安心して暮らせる。それはとても良い地域と私には思われます。
 
2.3.  地域のブランド力
 「看取りの家」ができたら、その地域のブランド力は下がるでしょうか? 「看取りの家」ができても、周辺の日常生活に大きな影響を及ぼすとは考えられません。「看取りの家」ができた地域は、ブランド力が上がると思います。
 
2.4.  よそ者の心得
 「事業者が住民と親しむ前に走りだしたことが大きな間違いだった」。地域としてよそ者が入って来るのを警戒するのは、本能的なもので、悪くはないでしょう。「看取りの家」の成功例を聞いていると、立ち上げ期に近所関係をよくするために細心の注意を払っていたのがわかります。その土地に住み影響力のある人を味方につけないと、よそ者が「看取りの家」を建設するのは、難しいでしょう。
 今回の業者は、その見通しが甘かったと思います。地域、そこに住んでいる人たちへの配慮がない。共存していくという意識がない。今回については、頓挫して当然だと思います。このような業者は、排除してかまわないと思います。
 
2.5.  開かれた地域へ
 その一方、よそ者を一切受け付けないのでは、閉鎖的な地域になってしまいます。「事業者と住民がまちの将来について話し合う機会が持てなかったことが非常にもったいない。思いやり合えない今の社会の一端」というのはもっともです。
 
2.6.  地域と死とを結びつける
 「在宅ケアが進んでいく中で、地域で死を迎えるためにはどうあるべきかを考えないといけない」。「これで終わりにせず、地域でどう死を受け入れていくのか、一から考えるきっかけにしてほしい」。そうだと思います。「やっぱり住宅地で開設するべきではない」で終わらせてはいけないでしょう。
 


3.   権利

3.1.  他者の土地利用を制限できるのか
 かねてから不思議の思っているのですが、自分の土地を自分で好きなように使おうとする人が、他の人がその人の土地を自由に使うのを妨げてよいものなのでしょうか。自分の庭に他者が「看取りの家」を作ろうとするなら、それを拒否するのは問題ないでしょう。しかし、自分の土地でないところに「看取りの家」を作らせない権利は、どこから来るのでしょうか
 
3.2.  NIMBY
 ごみ焼却場などいわゆる迷惑施設を建設しようとすると、だいたいNIMBYが起こります。「必要な施設だが離れた場所につくってほしい」が、まさにその発言です。
===== 引用はじめ
 NIMBY(ニンビー)とは、英語: “Not In My Back Yard”(我が家の裏には御免)の略語で、「施設の必要性は認めるが、自らの居住地域には建てないでくれ」と主張する住民たちや、その態度を指す言葉です。
===== 引用おわり
NIMBYWikipedia
 
3.3.  身勝手な権利主張
 「必要な施設だが離れた場所につくってほしい。見える範囲でなければあってもいいというのが正直なところ」。実に身勝手な発言です。
 たとえば焼却炉施設を受け入れてくれた地域に迷惑がかかっています(家の前をごみ収集車が頻繁に走るようになる、等)。その施設を他の地域の人が使える権利は、どこから来るのでしょうか。「あなたはこの迷惑施設を受け入れてください。私はこの迷惑施設を受け入れます。お互いに使えるようにしましょう」があるべき姿ではないでしょうか。
 


4.   「勝った負けたの問題で終わらせたらいけない」

 「死」「地域」「権利」に関する意識が未熟だったり、身勝手だったりしています。ここの問題を解消しないと、「看取りの家」断念はこれからも起こり、結果として、すべての人が暮らしにくいまちになってしまいます。
 「反対していた住民から安堵(あんど)の声が上がる」。住民は勝ったと思っているようです。勝ったのかもしれませんが、負けたのは、未来の住民、これから先の自分たち自身だと私は思います。
 


このシリーズ、終わり
 
<出典>
「看取りの家」断念 多死社会の課題浮き彫りに
https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/201906/0012407843.shtml

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