生き続けることが苦しくなることがあるが、これは「加齢により体が生きる限界に達した時」と、「そうでない時」の二つに分けなければならない。
結論から言うと、「そうでない時」は何としても生きる努力を続けなればならないと思う。
しかし「加齢により体が生きる限界に達した時」は、生き続ける努力を止めてもよいと思う。これには手順がある。先ず本人が「これ以上生き続けなくてもよい」と思うこと、次に家族等本人に深く関係している人がそれを容認すること。この二つのステップを踏んだ時、尊厳死を認めて良いと思う。認めるべきだと思う。
本人が「これ以上生き続けなくてもよい」と思っているか否かは、本人が言葉で意思表示できなくても、伝わるものだと思う。コミュニケーションの手段は言葉だけではない。日頃からよく話し合っている家族なら、愛する家族が「これ以上生き続けなくてもよい」と思っているかどうかは、間近で様子を見れば、的確に判断できると思う。その判断は、予め書いておいた「リビングウイル」で判断するより、よいと思う。
たとえリビングウイルに何が書いてあろうが、本人が「まだ生きたい」と思っているなら生かしてほしい。そして「これ以上生き続けなくてもよい」と思ったようなら、心臓マッサージや人工呼吸で無理やり生かし続けるのは止めてよい。静かに、自然の成り行きに任せてほしい。そのような状態で生き続けるのは、苦しいことなのだ。
とはいえ、リビングウイルがあるのにそれを無視するのも問題だ。だから、私はリビングウイルを書かない。その場になってみないと、自分がどう思うかは分からない。予め書くことにより、その時の判断の自由度を奪いたくない。
===== 引用はじめ
その弁護士さんは「○○さ~ん!がんばってよ!もう、息子さんこっちに向かってるからね!と大声で伝えたのだそうです。すると、ビクと体が動き「あ!呼吸が戻るのかな!」と弁護士さんは思ったのですが、呼吸が戻ることはなかったのだそうです。この話を聞いて、「やはり最後まで耳は聞こえるって本当だったのだな」と、いつも自分が人に説明していることながら、それが確認できたことに驚きました。最後まで、というより、心肺停止後ほんの数分かもしれませんが大脳はまだ生きていて、耳が音を認識しているのかもしれません。心肺停止後も大脳がまだ生きているとすれば、その時間に儀式的な胸骨圧迫(心マッサージ)や人工呼吸などの痛いことはやめてあげてほしいなあと思うのでした。
===== 引用おわり
(注)「リビングウイル」とは
https://www.songenshi-kyokai.com/living_will.html
<出典>
尾崎容子、優しくするってどうすること?
【在宅善哉】 産経新聞(2019/05/28)
添付イラストは、以下からの転載。
https://ameblo.jp/one-kaigo-tanoshi/entry-12390433405.html
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