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彼女の人生が「惨めであった」などという意味付けがされることがないように願う。それは彼女を思っていたであろう多くの支援者にとってあまりに悲しすぎると思う。どんな人生でも、意味付けできると気づいてほしい
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自分で動くことができず「食べて、寝て、出すだけ。こんな人生に意味はない」という人には、「自分で動けない人生に意味はない」という意味付けがなされるでしょう。
しかし一方で、寝たきりの女性が「もうリハビリなんていや。もうこのままでいい。寝ていたらご飯が食べさせてもらえて、お下(しも)も替えてもらえて、極楽や」という人も実際にいるのです。周囲の環境との関わりを意識するでもなく温かいものだと感じているこの女性にとっては、「寝ているだけでも生かされている、極楽や」という意味付けがなされているのでしょう。
自分で何一つできることがないという苦痛。想像を絶する苦痛。それらの苦痛に絶望を感じていた女性にかける言葉は私には見つかりません。しかし、彼女の人生が「惨めであった」などという意味付けがされることがないようにと願っています。それは彼女を思っていたであろう多くの支援者にとってあまりに悲しすぎると思うのです。
もし今、「自分の人生なんて意味がない」と悲しみを抱えている人がいるならば、今一度思い返してみてほしいのです。どんな人生でも、「意味がない」以外の意味付けをすることができるのだと。あなたに生きていてほしいと願う人がいることに気付いてほしいと思います。
<出典>
難病患い生きる人生の意味付けと医師としての思い
2020.8.14
14:00プレミアム
https://www.sankei.com/premium/news/200814/prm2008140001-n1.html
添付写真は、
おかやま在宅クリニックでスタッフと打ち合わせする尾崎容子医師(右)=京都市中京区
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