【 敬老の日 ・ 敬意 】 かつて「お年寄り」や「ご老輩」という言葉には自然と敬意が込められていた ~ これは「かつて」の話になってしまったのではないか。何が足りないか、改善するための高齢者の課題は何か、考えてみた
「敬老の日」というタイトルの記事を読んで、考え込んでしまった。
===== 引用はじめ
古来、老いたる馬は路を忘れずという。経験を積んだ人は、自分の行うべきことをよく心得ている。かつて「お年寄り」や「ご老輩」という言葉には自然と敬意が込められていた。年長者を敬い個々の意欲を尊重してともに歩む、そんな心豊かな社会でありたい。
===== 引用おわり
私には、若い人から「お年寄り」や「ご老輩」という言葉には自然と敬意が込められていた」というものを受け取っている実感がない。
私だけでなく近くの「お年寄り」も、ただたんに煙たがられているように見える。なぜこのようなことになってしまったのだろうか。四つ考えた。
(1)
若い人と接点をもてていない。若者から「敬意が込められ」た言葉を受けるチャンスがない
(2)
我々が上の年代に、「自然と敬意が込め」ていただろうか。我々の姿を若者が引き継いだだけではないか
(3)
高齢者は「若者のために、若者に伝えよう」と語り始めるが、多くはただ高齢者が自分の自慢話をしているに過ぎない
(4)
若者にとって必要なものを、高齢者は外している。若者にとって必要なのは何か、多くの高齢者は把握していない。必要とされるものを与えず、自分が与えたいものを与えている。若者にとって役に立たないものを、恩着せがましく
<出典>
意欲を後押しする社会に 敬老の日
【主張】 産経新聞(2021/09/30)
<添付図>
https://nihon-nenchugyoji.com/keirounohi/
0 件のコメント:
コメントを投稿