2018年11月6日火曜日

(K0553)  キサーゴータミーの話 <親しい人の死>

 
===== 引用はじめ
 あるとき、幼い男の子を亡くしたばかりのキサー・ゴータミーという名の女性が、遺体を抱えたまま、「子供に薬を下さい、薬を下さい」と、狂乱したように町中を歩き回っておりました。ゴータミーは、たまたま舎衛国に来ておられた尊者の噂を聞きつけたのでしょうか、釈尊のもとに行き、同じように薬を求めました。さて、釈尊はどのように応対されたと思いますか。
 釈尊はこんな風に答えられたといいます。
 「よろしい、ケシの粒を持ってきなさい。ただしいまだかつて死人を出したことのない家からね」。
 これを聞いたゴータミーは釈尊がケシの粒から子供を生き返らせる薬を作ってくれると思ったのでしょうか、あちこち探し回ったけれども、ついにこれを得ることが出来ず、しかし人生の無常ということを知り、出家して後にさとりを得たのでした。
===== 引用おわり
http://mujintou.net/houwa1.htm
 

 これを、どう解釈するか
 
1.    実行を通じて受け入れる
2.    必要なのは説法ではない。Not doing but being
3.   「マニュアルなき状況」「対機説法」
4.   「答えの出ない問い」に対してできること
 


【展開】

1.   実行を通じて受け入れる

===== 引用はじめ
 時には、事実に話すよりも、何か実行させることによって、受け入れることができる、そういうこともあります。
 お釈迦様は、キサーゴータミーに伝えようとされたのは、実行させねば分からない重い真実であったのでした。
===== 引用おわり
https://1kara.tulip-k.jp/buddhastory/2017011422.html
 

2.   必要なのは説法ではない。Not doing but being

===== 引用はじめ
母親:愛する人を失ったのは「私一人ではない」。むしろ、皆が悲しみを抱えながら生きているという現実に気づかされた
釈迦:説法する(「諸行無常」を説く)のではなく、母親自らが死という不条理な現実に向き合えるようにかかわった。
 
釈迦の遺族へのかかわり:
× 「法(教え)ありき」
○ 「目の前に人ありき」

 何か特別なことをするのではなく、ただそばで心を寄せる
Not doing but being
===== 引用おわり
 

3.   「マニュアルなき状況」「対機説法」

===== 引用はじめ
  悲嘆(グリーフ)を抱える方々に対して、私たちができることは?
 「なぜ病気になったの?」は、「答のない問い」である
 「答えのない問い」に面した時、「マニュアルなき状況」に陥る
 「対機説法」の大切さ
===== 引用おわり
 
「対機説法」
===== 引用はじめ
 仏教は、「対機説法」だといいます。お釈迦さまがそうでした。お釈迦さまが説法されるときは機をみて法を説いたといいます。機とは法を説く相手のことです。その人の人格、年齢、教養、性質、まわりの環境、それらをよく知った上で、その人が理解できるように法を説いたのです。だから、心の底に教えがおさまったのでしょう。
 一方的な言い方ではなく、まず相手を理解する。その中にことばの交流はあるのでしょう。
===== 引用おわり
http://www.tendai.or.jp/houwashuu/kiji.php?nid=65
 
 
4.   「答えの出ない問い」に対してできること

===== 引用はじめ
  相談者も、「答えがない」ことは知っている
  にもかかわらず、「問わずにはいられない」ことを、私たちが逃げることなく受け止める
  もちろん、私たちにも答えは出せない
  (個人的意見は言えるかもしれないが…)
  基本は「共感的傾聴」+「共にいること」+「対話」
===== 引用おわり
 


<出典>
【講演】西岡 秀爾、「日本人の死生観」、神戸つむぎの会(2018/10/20)
 
下のイラストは、以下より転載
http://www.nvn.cc/lecture/ml11_2_b.pdf


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