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人生の目的は長寿ではない。医学の任務は延命ではない。現実は、医学により延命され、長寿が実現した。90歳まで生きるとしても、60歳のあと30年はある。心身とも元気な前半と、衰えてくる後半。どう生きるか
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定年後、「定年後A」が「定年後B」に取って代わったように見えるが、それは正しい表現ではない。健康寿命の延伸により、「定年A」が繰り下がり、その間隙に「定年B」が入り込んだ、というのが正しい表現である。
「定年後B」の後には「定年後A’」が来るのが正しいが、多くの人は「定年後C」が来ると、希望的に思い込んでいる。それでは最後が悲惨になる可能性がある。
「定年後B」と「定年後A’」を正しくデザインし、実現することが肝要である。
===== 引用はじめ
昔は人生50年、といった。今では人生は100年と見なければならない。60歳から100歳まで40年。90歳まで生きるとしても、あと30年はある。気の遠くなるような時間だ。人生を二度生きる必要がある。
社会的な立場からは解放されている。解放というか、自由になったというか、要するに放り出されたようなものだろう。その数十年をどう生きるか。これまでの人生論などは、ほとんど役には立つまい。
===== 引用おわり
「定年後B」
===== 引用はじめ
そこを前向きに、プラス思考で生きることがすすめられている。趣味に生きるとか、ボランテイア活動に参加するとか、新しい分野の勉強にはげみ、資格をとるとか、さまざまだ。つまり、定年後も現役意識をもって生きよ、というのである。
それはそれで結構なことだろう。七十を過ぎて企業を立ち上げ、成功している人もいる。若い仲間とともに国際的なNPO活動に汗を流している人もいる。写真や俳句ですぐれた仕事を認められる人もいる。
===== 引用おわり
「定年後C」
===== 引用はじめ
それはそれで、すばらしいことだと思う。しかし、いずれ人は老いる。青春の心を失わなければ人は老いない、などというが、それは願望ではあっても現実ではない。千人に一人、
一万人に一人のエリートの例であって、大多数の高齢者はいずれ認知症か、病気か、寝たきりで介護をうけることになるだろう。九十歳、百歳を過ぎて、なお活躍している人の話など夢のまた夢、というしかない。
いま、ほとんどの老人たちには、余生をさらに「充実して生きる」ことがすすめられている。時間と、ある程度の経済力をもった老人たちが、暴走したり、迷走したり、疾走したりしている。そんな新老人が目立つ時代になった。
===== 引用おわり
「定年後A」、「定年後A’」
===== 引用はじめ
かつてリタイアした老人たちの仕事は、お寺参りとか、お遍路とか、ご詠歌の会とか、おおむねそんなものだった。いずれもただの楽しみではなく、あの世へいく「逝き方」の稽古だった。いずれやってくる死を、日々みつめながら、人生の締めくくりをイメージするトレーニングだったといっていい。
===== 引用おわり
<出典>
五木寛之、「新老人の思想」、P.73 – 75
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