【 読書 ・ 老人力 】、しかし自分が何だか堂々とした大人物になってきたようで満足している。小人物はいつもこせこせと忘れ物をしないように努力している。でも大人物になると、財布ぐらいはぼ―んと忘れる。金なんていいじゃないか。
ぼくはこの間財布を忘れた。お、来たなという感慨があつた。
ぼくはもともと気が弱くて臆病な性質だから、財布を忘れて家を出る、なんてことはまずない。家を出る前にズボンやシャツを着替えたあと、財布、手帖、時計、眼鏡、鍵、ハンカチ、筆記具、といろいろ点検しながら、財布はその筆頭だから、忘れるなんてことはまずなかった。
それが、財布を忘れた。2、3日後、また忘れた。
改札で、
「あのう、財布忘れて……」
と言いながら、学生のころの無賃乗車の言い訳を思い出した。駅員に、
「いいですよ。ちょっと名前だけ書いといて下さい」
と出されたノートには、財布忘却者の名前が日時金額とともに、ぎっしり書きこまれている。
一人何円くらいか知らないが、けっこういるんだ。ぼくも恥ずかしながら一筆書いて駅を出してもらった。三百いくらかだったかをすぐ払いに行ったが、考えたらあのノートは、一種の老入力名簿じゃなかろうか。
こうして二度も財布を忘れて出かけてしまって、しかし自分が何だか堂々とした大人物になってきたようで満足している。小人物はいつもこせこせと忘れ物をしないように努力している。でも大人物になると、財布ぐらいはぼ―んと忘れる。金なんていいじゃないか。
前回は、
(K1501) 老人みずからが堂々と沈んでいく / 「 老人力 」(7)
http://kagayakiken.blogspot.com/2021/06/k1501-7.html
<出典>
赤瀬川原平、「老人力」、筑摩書房、P.46 ~ P.47
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