2021年7月14日水曜日

(K1536) 理屈の正しさ よりも、 自分の感覚 / 「 老人力 」(12)

 【 読書 ・ 老人力 】 老人力 がついてくると、まあいっか、というのが基本だから、 論理 で怒られたって別にいいという アバウト感覚 で、 芸術 より 趣味 、 思想 より 好き嫌い 、 平等 よリ エコ贔員 の路線で行けるようになる


 「論理的に正しければ、結果も正しい」とは言えない、のが老人力ならば、確かに私(=藤波)にも、老人力がついているのかもしれません。

 自分の中で論理的に詰めていって、どうも正しい方向に向いていないという感覚があったら「まあいっか」と思考を止めてしまいます。誰かと論理で負けそうになっても、それでも自説の方が妥当だと感じたら、「確かにあなたの言う通りだ」と口では降参するが、私の心の中では負けておらず、自説を固持したままになります。

 

===== 引用はじめ

 論理的には正しいはずの方に向かいながら、しかしどうも嫌だなという感じがあるとき、どうする?

 老人力のまだない若年時代は、やはりどうしても論理に従う。論理を前に立てる。そうしないと怒られるんじゃないかとか、馬鹿にされるんじゃないかとか考えるんです。

 でも老人力がついてくると、まあいっか、というのが基本だから、論理で怒られたって別にいいというアバウト感覚で、芸術より趣味、思想より好き嫌い、平等よリエコ贔員の路線で行けるようになる。

 つまり理屈の正しさよりも、自分の感覚がいちばんということ。

 最近は論理的思考の落し穴というのをつい考えてしまう。たとえば例の少年の人殺し事件。いろいろな識者がその事件の中に論理的に分け入り、細かく分析していく。AだからBになって、BだからCになったということが、端から理由がつけられていく。いろんな説があるけど、ぼくなどはどの説も正しいと思ってしまう。でもそういう論理をたどっていると、何だかその事件を肯定するような位置にいるのに気がつく。

 嫌だなあと思う。

 殺人はもちろん嫌だけど、それを嫌というふうにいえないような論理の力そのものが嫌になるのだ。何か「好き嫌い」の後ろにじりじりついてきて、隙を見てすぐ前に出ようとする。

===== 引用おわり

 

 前回は、

(K1529) 「老人は家の守り神」という立看板 / 「 老人力 」(11)

http://kagayakiken.blogspot.com/2021/07/K1529.html

 

<出典>

赤瀬川原平、「老人力」、筑摩書房、P.86 P.87




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