(K0460)からの続きである。「尊厳ある生」「尊厳ある死」を考えてみる。
死亡とは、「よく分からない世界に消えていく」ことと考えた。現象的には消えるのだが、本当に消えてなくなると思うかどうかで、二つに分かれる。
ある人は、本当に消えてなくなると思い、そうすると「消滅する私」に苦しむことになる。
別の人は、「個がsomethingに結びつき吸収されていく」という心境に至り、ここでは私が消滅してしまうことはない。
二つの条件を考えてみた。
(1) 助けを得ながら最期まで自立している(肉体の世界)
高齢になり「弱くて助けを必要とする」状態になっても、「至れり尽くせり」で他の人に依存するのではなく、自分でできることは自分でして、できないことは補助してもらう
(2) (本人も・送る人も)安らかな死(魂の世界)
死を迎えるにあたって、大きなものに包まれて安らかな気持ちになる。
この二つの条件がそろえば、死を迎える直前であっても「尊厳ある生」を実現できるのではないか。
最近、入院して「尊厳死」を希望する人が増えたようだ。単に「延命治療しない」と「尊厳死」を迎えられるのだろうか。現在の定義によれば、Yesなのだが、それは「尊厳」という言葉に値するのだろうか。単に管をつなぐか、外すかの現象的な違いに過ぎないのではないか。
そもそも、死に尊厳があったり、なかったりするのだろうか。死の直前まで、先に述べた二つの条件をクリーアして「尊厳ある生」を生き抜き、やがて力尽きて死ぬ。それを「尊厳ある死」と呼んでよいのではないか。「尊厳ある生」と「尊厳ある死」は一体であって、両方あるか両方ないかの、いずれかだろう。大切なのは「尊厳死」ではなく、「尊厳ある生」だと私は思う。
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