今日もうまく寄り添えなかったなと、今日も落ち込む。寄り添えないことは、良くないことだ。しかし、だ。寄り添えたと思ってしまうより、少しは良いのではないだろうか。
寄り添えなかったと思うことは、希望ではないだろうか。あしたは、少し寄り添えるかもしれない。伸びしろ、がある。
「寄り添える」も「寄り添えない」も無いのではないか。YesかNoかではない。一本の長い直線があって、無限のかなたに「寄り添う」があり、もう一方の無限のかなたに「寄り添わない」がある。今、私が立っている所は、「寄り添う」でも「寄り添わない」でもない。
伸びしろがあると思えることは、ありがたいことだ。人と接すると、寄り添えることもあれば、心ならずも傷つけてしまうということもある。傷つけることもあるが、寄り添えるチャンスもある。
だから、人と接する勇気が出てくる。悩みながら悩みながら、少しずつ接し方が変わっていく。勇気を出して人と接するから、そして悩むから、伸びていく。希望をもって、希望への一歩を歩み始めることができる。
また考える。「寄り添う」という行為は、そもそも無いのではないか。あるのは「気づくと、寄り添っていた、という状態」だけではないだろうか。「寄り添おう」という意思は、邪魔をしているだけではないだろうか。
少なくとも、「こうすれば寄り添える」という方法はない。一人一人違うし、背景も違う。今日のAさんは、昨日のAさんとは違うかもしれない。昨日うまくいっても、今日うまくいかないかもしれない。「こうすれば寄り添える」という行動はない。
関係性の場において、ありのままでおられるか。ありのままでおられる自分なのだろうか。ありのままの相手をそのまま受け入れられるだろうか。答えのない問いかけが続く。
連続公開講座第1回、藤井美和先生の講演を聴きました。上に書いていることは、聞いたことではなく、聴いて私が思ったことです。
<ご参考>
藤井美和、「寄り添いに求められるもの」、連続公開講座「生きづらさの中を生きる」(社会福祉法人神戸いのちの電話主催)、神戸市立総合福祉センター、2019/04/04
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