藤井講師のテキストには、次のように書かれている
===== 引用はじめ
寄り添いの本質:自らが問われる・ 丸ごと受け止めること
・ 自らの限界
===== 引用おわり
前回から引き続き、これをどう解釈するかについて書く。解釈しているのは私(=藤波)である。だから、書いてあることが、藤井講師が意図したことである保証はない。
ここで、丸ごと受け止めることとは、寄り添われる人(A)をあるがままに、寄り添う人(B)が受け入れること。自らが問われるとは、寄り添う人(B)がそうできているかを問われる ―― こう、とりあえず解釈する。とりあえずと書いたのは、これはこれで間違いではないが、もっと広く解釈すべきだと思っている。このことについては、次回に書く。
次に、自らの限界とは何か。私のメモには、「自らの限界を認めることができるか <--> わからない。苦しみがわからない。自らの苦しい限界を超えて」と書いてある。読み直しても、よくわからない。
寄り添おうとしても、どうしても寄り添えないところが残る。そのような限界があることを知っていること、ではないだろうか。
(K0707)に次のような記述がある。
===== 引用はじめ
母はほんとにいつもニコニコ笑って来るんですね。……
ある時母が帰る時に呼び止められて、「娘さんはどんな病気か解っているんですか!」とえらく叱られた、というふうに聞いています。
母は、「私はこの子に会いに来るのが嬉しいんです」ということと、「病気のことは、私たちには何にもできない。それは神様に任せてあります」というふうに看護士さんと長いことお話をしたということで、「教えられました」というふうに、その方はおっしゃってくださったそうなんです。
===== 引用おわり
「病気のことは、私たちには何にもできない。それは神様に任せてあります」 … 「自らの限界」
「母はほんとにいつもニコニコ笑って来るんですね」 … 「自らが問われる」
このように対応しているのではないか。
<出典>
藤井美和、「寄り添いに求められるもの」、連続公開講座「生きづらさの中を生きる」(社会福祉法人神戸いのちの電話主催)、神戸市立総合福祉センター、2019/04/04
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