2019年4月7日日曜日

(K0707)  寄り添われ体験 / 「寄り添いに求められるもの」(4) <後見と電話相談>

 
 藤井講師は、28歳のとき、急性多発性根神経炎を患った。

===== 引用はじめ
 何とか電車で帰宅し、その後すぐに救急病院に入院しました。指は1本も動かず、瞬きもできない状態でした。でも耳は聞こえるし、認識もできる。いわゆる意識障害はないんです。 … 「私は死ぬんだな」と思いました。カーテンの向こうで家族が泣いているのが見えました。
===== 引用おわり
http://kagayakiken.blogspot.com/2018/12/k0591-2.html


 生死をさまよった一夜を明かして
===== 引用はじめ
 主治医が来て「藤井さん、もう死にませんよ」といってくれました。でもその後、死なないけれど、一生寝たきりか、車いすに乗れたらいい方だと思ってくださいね」といわれたんです。
 前日までは死に直面して「私の人生は何だったんだろう」と思っていたのが、今度は生きることに直面して、「寝たきりで生きて何の意味があるんだろう」と思いました。
 家族が私の面倒を見るとなると、私は家族の重荷になるのではないか。生きることに意味が見いだせなくて、泣けてしまいました。
===== 引用おわり
http://kagayakiken.blogspot.com/2018/12/k0594-3.html
 

 まさに、スピリチュアルペインの状態。
 その後、いろいろな出会いがあった。
 
 「寄り添われる」とは何かを、言葉で定義しても、よくわからない。それより、講師の「寄り添われ体験」に耳を傾ける。
 

   病室の出会いから知る

 神戸港が一望できる病室にいる患者にとって、外の世界は神戸港に入るフェリーさんふらわあだけだった。目の玉だけしか動かせない私のベッドサイトに、自力移動を禁止されている悪性リュウマチの女性患者が来た。「藤井さん、これよ。これがさんふらわあよ」と一言だけ発し、病気の影響で曲がらない手で手鏡の角度を変えながら、遠くの船が港に入るまでの間、ずっと映してくれた。
 

   血圧計を抱えて泣いておられた看護師さん

 大抵の看護士さんは記録も付けられたら、「藤井さん、頑張ってね」とか、「よくなるわよ」とかおっしゃって帰っていくんです。でも、その看護士さんはずっと立っておられた。血圧計を抱えて泣いておられたんですね。ボロボロと泣かれた後に、「藤井さん、辛いね!」っておっしゃってくださって、その後に、「藤井さん、辛いけど、神様の力は弱いところに完全に顕れるからね」っていうふうに言ってくださったんですね。
 

   ニコニコと見舞いにきてくれた母

 母はほんとにいつもニコニコ笑って来るんですね。私のベッドサイドで泣くことなんて全然なくて、楽しい話をして、自分でいろんなおしゃべりをして、お腹が空いたらおやつを食べたりしながら、で、またニコニコして「またね」とか言って帰って行くんです。「娘さんはどんな病気か解っているんですか!」とえらく叱られた母は、「私はこの子に会いに来るのが嬉しいんです」ということと、「病気のことは、私たちには何にもできない。それは神様に任せてあります」というふうに看護士さんと長いことお話をしたということです。
 

【詳細】

   病室の出会いから知る

===== 引用はじめ
 だけど私は、瞬きもできない状況は変わりないのに、生きていていいと思えるようになった。そう思える、本当にいろんな出会いがあったんです。
 治療を終えて一般病棟に移ったのですが、神戸港が一望できる9階の4人部屋で、毎朝、九州から神戸港に入るフェリーさんふらわあが、きれいに見える部屋なんです。青い海に浮かぶオレンジ色の太陽マークをつけた船体。これを患者さんたちは毎朝眺めます。患者にとっての外の世界は、本当にこれだけしかないんです。
 でも、私は寝たきりだから見られない。私の足の向かいに50代の悪性リウマチの女性患者さんがいました。ある日の早朝、女性は自力移動を止められていたのに、ヘッドから車椅子に移って、私のベッドサイドに来られたので、どうしたのかなと思って目の玉だけを動かして下を見ると、女性の膝の上には手鏡が乗っていました。その細い、病気の影響で曲がらない手がにゅーっと私の目の前に出てきて、手鏡に映してくれたのが、さんふらわあだったのです。
 遠くの船が港に入るまでの間、少しずつ手鏡の角度を変えて映じてくださった。女性はたった一言、「藤井さん、これよ、これがさんふらわあよ」と。見せてあげようとか、見れて良かったねとか、何もおっしゃらない。ただにこにこしながら、ベッドに戻っていきました。忘れられない、私の原風景です。
===== 引用おわり
藤井美和、「今ここにいる奇跡」病室の出会いから知る、死を見つめる心③、産経新聞(2018/12/05)
 

   血圧計を抱えて泣いておられた看護師さん

===== 引用はじめ
 一緒に泣いてくれた看護師もいました。私は大人になって初めて全てをなくし、ありのまま受け入れられるという経験をしました。全てをなくしたけれど、一緒に喜んでくれたり、泣いてくれたりする方がいた。何かができるからあなたはすばらしいということではなく、自分はここにある、それ自体が奇跡であり、価値かあるということを、こうした出会いから教えてもらいました。
===== 引用おわり
藤井美和、「今ここにいる奇跡」病室の出会いから知る、死を見つめる心③、産経新聞(2018/12/05)
 

===== 引用はじめ
 私の脈とか血圧を測りにこられた看護士さんがおられたんですけども、その方が全部お仕事が終わって、記録も付けられているのに、帰らないで立っておられたんですね、ずっと。大抵の看護士さんは記録も付けられたら、「藤井さん、頑張ってね」とか、「よくなるわよ」とかおっしゃって帰っていくんですけども、自分自身はかなり状態が悪いというのがわかっていますから、そういうことを言われても、毎日言われるので聞き流すしかなかったんですが、その看護士さんはずっと立っておられて、どうされたのかなと思って見ましたら、血圧計を抱えて泣いておられたんですね。ボロボロと泣かれた後に、「藤井さん、辛いね!」っておっしゃってくださって、その後に、「藤井さん、辛いけど、神様の力は弱いところに完全に顕れるからね」っていうふうに言ってくださったんですね。その時、ほんとに私は、一緒に泣いてくださる方がいる、というのはほんとに大きな救いで、ほんとにそういうことだと思うんです、人に関わるというのは。何か安易な励ましとか、元気だね、というのではなくて、一緒に泣いてくださる方だったり、一緒に喜んでくださる方という。私のありのままを受け止めてくださる方がいたということ―家族を含めてですけれども―そういった「あなたはそのままでいいんだ」という、「そのままで生きていていいんだ」という。聖書にも、

     わたしの目にあなたは価(あたい)(たか)く、貴(とうと)
         (イザヤ書四十三章四節)

という言葉があるんですけれども、ほんとに丸ごと受け止めて貰えるという、そういう方たちがいるということが、たとえ人生の最期に近づいてきたとしても、そういう方がいることによって自分の人生の締め括りというのは、随分違ったものになるんじゃないか、というふうに思いましたね。
===== 引用おわり
http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-401.htm
 

   ニコニコと見舞いにきてくれた母

===== 引用はじめ
 母はほんとにいつもニコニコ笑って来るんですね。私のベッドサイドで泣くことなんて全然なくて、楽しい話をして、自分でいろんなおしゃべりをして、お腹が空いたらおやつを食べたりしながら、で、またニコニコして「またね」とか言って帰って行くんですけれども、私に会いに来るのがそれが嬉しいんだ、という。あなたそのままで私の大切な子どもという、そういうメッセージをずっと母からもらってきました…
 けれど、あまりニコニコして病院へ来ていたものなので、看護士さんなんかは、ちょっと問題のある家族だというふうに思ったみたいで、現状認識がまったくできていないというふうに思われたようで、ある時母が帰る時に呼び止められて、「娘さんはどんな病気か解っているんですか!」とえらく叱られた、というふうに聞いています。
 母は、「私はこの子に会いに来るのが嬉しいんです」ということと、「病気のことは、私たちには何にもできない。それは神様に任せてあります」というふうに看護士さんと長いことお話をしたということで、「教えられました」というふうに、その方はおっしゃってくださったそうなんです。

 家ではいつも妹と一緒に泣きながら祈っていた、というのは、ずっと後になってから聞いたんですけども。何かができなくなったことが悲しい。勿論、母も「辛くて悲しかった」というふうに言っていましたけれども、でもそれがすべてではなくて、私が生きてここにいる、ということに喜びがあったり、ここに来るのが楽しいという、私の存在そのものを受け止めてくれる家族がいたというのは、私にとっては大きな恵みだったな、というふうに思っています。
===== 引用おわり
http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-401.htm
 

<出典>
藤井美和、「寄り添いに求められるもの」、連続公開講座「生きづらさの中を生きる」(社会福祉法人神戸いのちの電話主催)、神戸市立総合福祉センター、2019/04/04




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