2019年4月26日金曜日

(K0724)  末期の桜 <臨死期>

 
 福井県にある高齢化率38%、人口2384人の旧名田庄村(現・おおい町)にたった一人の医師として赴任し、在宅医療、介護、看取りを支援してきた中村伸一氏は、大往生とは何かを考え続けてきた。
 
===== 引用はじめ
 名田庄では、お迎えが近づくと「次の桜は見られるやろか?」とよく問われます。厳しい冬を耐え、長く待ちこがれた春を迎える喜び、その象徴が”桜”。だから、無理な延命は願わないけれど、「あと何回、桜が見られるやろ?」と、桜が寿命のスケールになっているのです。それほど末期の桜には価値があり、実際に花を見て、大満足で逝く人々を看取ってきました。
===== 引用おわり
 


 その中村医師が「機器の管につながれた高度な医療よりも、はるかに心のこもった巧妙な医術に、感激やら感動で胸がいっぱいになりました」というエピソード。
 
===== 引用はじめ
 先生と看護師さんがいつものように診察に来られました。
 ベッドに横たわる主人の胸元30センチくらいの高さに、先生は握り拳を差し出し、「奥さん、手を貸してください」と私の手のひらを主人の胸の上に据えました。「エーッ! 先生、いつから祈祷師に??」と思いきや、「松本さん、桜ですよ」とおっしゃって、握った拳の指の隙間からヒラヒラと桜の花びらが私の手のひらと主人の胸の上に舞い落ちました。なんとも粋な計らいに、私は目頭が熱くなり、無心で落ちた花びらを主人の枕の上にちりばめていました。
 主人が臥してから3年目の身体は、3度目の桜を見せてあげられる状況にはほど遠く、諦めてはいたものの、桜の花が咲き始めてから、私の心中は穏やかではありませんでした。満開の桜から散り始めた花びらに「散らないで。お父さんは、まだ見ていないんだから」と呼びかけたいような複雑な思いで、日々、窓から見える桜を眺めておりました。そんな私の思いを、先生はいとも簡単に、さりげなく成し遂げてしまわれたのです。
===== 引用おわり
 

<出典>
お一人さまで「家で逝く」幸せな最期は存在する 孤立死・孤独死は必ずしも悲劇ではない
https://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/お一人さまで%ef%bd%a2家で逝く%ef%bd%a3幸せな最期は存在する-孤立死%ef%bd%a5孤独死は必ずしも悲劇ではない/ar-BBW8riT?ocid=spartandhp#page=2

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