寄り添いの本質は、「自らが問われる」ということだ。私(=藤波)は、次のように解釈した。
寄り添うにはどうすればよいかという行為の世界(Do-World:造語)から入っては、寄り添う状態に至れない。全然別の世界、異次元の世界である、存在の世界(Be-world:造語)から入ると、チャンスがある。行為の世界からの働きかけで「寄り添う状態にする」のではなく、存在の世界でのありようにより、「寄り添う状態になる」のではないか。「どのような存在にあるか」を、講師は「自らが問われる」と表現したのではないか。
「スピリチュアルペインは、様々な場面で見られる」とし、「人に助けてもらう高齢者」をその一つとして挙げた(K0705)。助ける側から助けられる側に移ったことが一つの原因と想定できる。しかし、赤ちゃんも助けられる側にいるが、愛の対象になる。赤ちゃんからすると「何もできない私を、ありのまま受け入れて」もらっている。違いは何か。
人は、社会生活において、何かをするから認められる。仕事をするから給料をもらえるのであって、仕事をしなければ給料はもらえない。それは、労働者は仕事をするから価値があるからである。この「労働者」がいつのまにか「人間」に置き換わってしまった。「何かをするから、その人間は価値がある」と思い込んでしまった。さらに、その「人間」に、「私(I)」も「あなた(you)」も「彼(he)・彼女(she)」も含めてしまい、その考えが固まってしまってしまった。
今の私には価値がないと思い込んでしまうと、スピリチュアルペインに襲われる。何もできない私、今のままの私に価値があると思えると、スピリチュアルペインから解放される。そして、その変化を一人で起こすのは難しい。誰かとの出会いがきっかけになって変容が起こる。それは先に示した(K0707)三つの「寄り添われ体験」に共通している。
「出会った誰か」(寄り添う人)(B)が何か特別なことをするから、対象となっている人(より沿われる人)(A)がスピリチュアルペインから解放されるというものではない。(B)がある状態にあり、(B)と(A)とが何らかの形で関係し、(A)が(B)に感化されたとき、はじめて(A)に変化が起きるのではないか。ここで、(B)がある状態にあるとは、「私(I)」も「あなた(you)」も「彼(he)・彼女(she)」も含めてすべての人に、無条件で従って今のあるがままで、価値があると感じられている状態を指す。(A)に変化が起きるとは、スピリチュアルペインから解放される、あるいは和らぐことを指す。
このような仕組みになっているのではないか。
<出典>
藤井美和、「寄り添いに求められるもの」、連続公開講座「生きづらさの中を生きる」(社会福祉法人神戸いのちの電話主催)、神戸市立総合福祉センター、2019/04/04
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