☆☆
アンケートによれば、「大切な人の死が怖い」が「自分の死が怖い」の10倍以上ある。死は、本人のみならず家族にとって深刻。個人主義の徹底している欧米と、家族が重要な意味をもつ日本では、自ずと考え方が違う
☆☆
私(=藤波)は、エンディングノートを未だ書いていないし、当分、書く気はありません。その理由は、
① 死を間近に感じない今、まさに死なんとするときの考えを想像できない、だから決められない
② 私の死は、私だけのものでなく、家族のものでもある。だから、決められない
===== 引用はじめ
私自身は安楽死を自分の最期の選択肢に加えたいと考えている。だが、病気に苦しむ妻や子供が安楽死を希望したら、「人間の気分は絶えず変化するもの。明日快晴だったら、気分が変わるかもしれない。それに新薬や新技術の登場できっと痛みは軽減できるはず」などと、言葉を尽くして反対するに違いない。
===== 引用おわり
自分の死と家族の死は違います。家族にとっても、同じこと。
意思表示できなくなったときの、延命治療をどうするかが、いつも問われます。もし私が「延命処理はしないで欲しい」と書き残し、それが実行されるとなって、家族は本当に納得できるて゜しょうか。少しでも長く生きていて欲しいと思うのは自然ではないでしょうか。それを無理やり無視していいものでしょうか。
私が死んだら、私は終わります。しかし、私が死んでも、家族は生き残ります。その家族が苦しむような選択を、私が勝手に決めてしまってよいのでしょうか。
<出典>
人生100年時代の「死に方」
【モンテーニュとの対話 「随想録」を読みながら】(62)産経新聞(2019/11/08)
https://www.sankei.com/premium/news/191110/prm1911100007-n1.html
<関連投稿>
(K0960) モンテーニュはかく語りき / 死に方について考えたい(2) <安楽死>
http://kagayakiken.blogspot.com/2019/12/k0960-2.html
添付は、
https://globe.asahi.com/article/11529805
http://group.dai-ichi-life.co.jp/dlri/ldi/report/rp1407e.pdf
0 件のコメント:
コメントを投稿