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安楽死に関する議論はかみ合わないが、議論せねばならない。議論の結果も大切だが、議論の過程がより重要だろう。多様性があることを認識し尊重しながら、共通理解できる部分を徐々に拡大していくことが大切だろう
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安楽死の議論になると、かみ合わなくなることが多いようです。かみ合わなさの要因がいくつもあるようです。「永遠にかみ合わないままだ、それでよいのだ」という認識が大切だと、私は思います。
① 価値観の違い
「安楽死は是か非か」は、多分に価値観が関わります。「安楽死を是認(否認)する貴方の価値観は間違っている」という発言を応酬しているのでは、何の進歩も生まれません。
第三者の価値観ではなく、当事者(死に逝く人やその家族)の価値観を尊重すべきではないでしょうか。
② 立場の違い
当事者間、すなわち「死に逝く人」と「その家族」の間で違いが発生することもあります。前回取り上げました。短く再録すると「私自身は安楽死を自分の最期の選択肢に加えたいと考えている。だが、病気に苦しむ妻や子供が安楽死を希望したら、言葉を尽くして反対するに違いない」。同じ人でも、立場により異なる見解を示すことがあります。
③ 立場の違いに対する対処の違い
「死に逝く人」と「その家族」との間で違いが発生したい場合、「その家族」の意向は無視して、「死に逝く人」本人の意志のみで決めるべきだという考え方と、そうではないという考え方があります。
対立したままあるいは話し合いのまま書かれたリビングウイルを、本人が意思表示できなくなった時点で家族が執行停止を主張した場合、今の日本の法律では、とても難しくなります。
④ 法律に対する立場の違い
法律で価値観まで縛って良いのかという議論がありますが、先ず、「殺人を犯してはならない」までは共通理解があるとします。「でも、安楽死なら例外として認めてよい」という法律を作るか作らないかという議論になった場合、いずれの立場に立っても、ある価値観に立脚しての発言になり、「法律で価値観を縛らない」ことは不可能でしょう。
⑤ レベルの違い
===== 引用はじめ
人生100年時代-。こんな時代だからこそ、死に方について、個人、家族、学校、国家レベルで真剣に考え始めるべきだろう。
===== 引用おわり
国家レベルで考えるとはどういうことでしょうか。例えば、
===== 引用はじめ
2002年に世界初の安楽死法を制定したオランダが、「死なせてよい生命」の範囲をめぐって揺れている。安楽死の広がりで、認知症の高齢者や精神障害者、「人生はもう無意味」と考える人まで死の権利を主張するようになり、国内で「行き過ぎ」という懸念も高まる
===== 引用おわり
『安楽死のできる国』(新潮新書)の著者、三井美奈
安楽死に関わる決定は、当事者や家族だけではなく、様々な人に影響をおよぼすので、個人の信条の問題という枠に留まることはできません。
議論してもこれという結論が出るわけではないけれど、だからといって、議論しなくてもよいとは言えないでしょう。
このシリーズ、終わり。
<出典>
人生100年時代の「死に方」
【モンテーニュとの対話 「随想録」を読みながら】(62)産経新聞(2019/11/08)
https://www.sankei.com/premium/news/191110/prm1911100007-n1.html
添付図の出典
https://www.m3.com/open/clinical/news/article/697103/
<関連投稿>
(K0962) 死は個人だけのものでない / 死に方について考えたい(3) <安楽死>
http://kagayakiken.blogspot.com/2019/12/k0962-3.html
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